今日は、大学でエミリオ先生の装飾と、C.P.E.バッハの「多血質と憂鬱質」を考察する講座がありました。
装飾の講座の内容は、主にコレッリのソナタに装飾をつけながら一人ずつ演奏していき、先生がアドバイスをしていくという実践的なもの。
フランス的な装飾は、音どうしが滑らかにつながり、まるで蛇っぽい感じな音型なのに対し、イタリア的な装飾は、フランスに比べてもう少し離れた音程で山型に付けるといった話や、Neumannの本やquantz等、先生の用意して下さった大量の資料をもとに、歴史的演奏をする際どのように装飾をつけていけばよいのかを教わりました。どれ位つけるかのサジ加減や、どのようにオリジナリティを出していくのかなど、とても奥が深いです。ムズカシイ・・・
今は明後日にあるバロックヴァイオリン科の演奏会への勉強をしています。
今回の演奏会のテーマは、「ボッケリーニ」。
エミリオ先生はボッケリーニ研究の第一人者です。私達の演奏会で先生も一緒に共演して下さいます。楽しみ。
ヴァイオリンソナタ、ふたつのヴァイオリンとチェロの為のソナタ、カルテット、クインテット・・・等を演奏します。
ボッケリーニは、チェリスト兼コントラバス奏者の父レオポルドの5人兄弟の中の3番目の息子として産声をあげました。
兄は詩人兼舞踏家、姉はバレリーナという芸術的才能に恵まれた環境の中育った彼が、幼い頃から音楽の手ほどきを父より受け、音楽の道を目指していったのは想像に難くありません。
生まれはイタリアのルッカですが、その後様々な国へ渡り音楽を吸収したのちに、後半生をマドリードで過ごし、晩年まで作品を世におくり続けました。
同時代の作曲家であるモーツァルトやハイドンらとは一風変わった彼の独創的な作品は、今も尚ヨーロッパ音楽史上、とりわけスペインの音楽史の中でひと際輝いているように見えます。
チェリストでもあった彼は、特に室内楽の分野を得意とし、その沢山の室内楽作品は後世へ影響を与えました。
プログラムに載せるため彼の生涯を色々調べていたのですが、スペインの代表的な作曲家という割には、スペインにどっぷり漬かっていた訳ではなく、グローバルに活躍していたのだな、という印象。
年表にまとめてみました。資料が少なく、未だどこに住んでいたか定かでない時期もあるみたいなので、私の調べた内容がもし間違っていたら、どなたかご指摘いただければ幸いです。
1743.2.19ルッカ生(イタリア) 1805.5.28マドリード没(スペイン)
43年 生誕。
父より音楽の手ほどきを受ける。のちに、ルッカの楽長であり作曲家兼チェリストのヴァヌッチに師事。13歳でチェリストとしてデビュー。
57年 父レオポルドとボッケリーニは、神聖ローマ帝国の首都ウィーンへ召喚され、宮廷劇場で職を得る。
数カ月ローマの聖ピエトロ大聖堂の楽長G.B.コスタンツィに師事。
当時ウィーンに滞在していたルッカの大使の話によると、彼の宮廷での演奏は評判だった。
59年
| ルッカと父のいるウイーンを行き来する。
63年 ウィーンへ戻ってくる間にウィーンでの彼の名声は高まっていった。
64年 ルッカでの求職願が受諾される。3年間ルッカに住まう。
65年 休暇中にミラノを訪れ、この地で初めての演奏会を行う(カルテット)。
66年
| マンフレーディと演奏旅行に出かける。ルートは定かではないが、67年に到着したパリが最終目的地だった模様。
67年 パリに持参した<6曲の弦楽四重奏曲集>(61年作)、二つのヴァイオリンとチェロの為の<弦楽三重奏曲集>(60年作)が出版。
その後幾つもの弦楽のための室内楽作品が出版。
68年3月 パリのコンセール・スピリテュエルに出演。自作のチェロソナタ1番を演奏。《Mercure de France》誌では称賛される。
69年 スペイン王子ドン・ルイスへ献呈した<弦楽四重奏曲集>(69年作)が出版。別の<弦楽四重奏曲集>を「マドリードの音楽愛好家諸氏」のために作曲。交響曲(G491)を作曲。
同年11月 ドン・ルイス王子に仕える「宮廷ヴィルトゥオーゾ兼作曲家」に指名される。王子の為の作曲活動が主な仕事内容。出版の自由が与えられていた。
70年 宮廷からの要請で弦楽五重奏の作曲を始める。多数パリで出版される。
71年 クレメンティーナ・ペリーチョと結婚。
74年 スペイン駐在のプロイセン大使を通じてプロイセンの王子フリードリヒ・ヴィルヘルムと接触。
76年 ドン・ルイス王子の結婚に伴い、自分の楽団とともにアビラのラス・アレーナス宮へ移る。
85年 妻クレメンティーナ、ドン・ルイス王子相次いで亡くなる。
国王カルロス3世への嘆願の結果、俸給の半額に当たる年金を手にしたとされる。
86年 フリードリヒ・ヴィルヘルム(のちのプロイセン国王)の宮廷作曲家に指名される。
| 立て続けに数人のパトロンから援助を得る。
90年
87年 王立楽団のチェロ奏者の娘、マリーア・デル・ピラール・ホアキーナ・ポルレーティと再婚。
98年 ヴィルヘルムの没後、後継の国王に自分の雇用を願い出るが、却下される。
1800 スペイン大使として赴任してきたフランス人ボナパルトの庇護を受ける。
02年 二人の娘亡くなる。
04年 三女と妻亡くなる。
05年 没。
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